どこで、可能か

エイズ以降、愛はどのようなかたちでありうるのか。肉体が私を防備できなくなったとき、精神はいかにして私を守ることができるのか。芸術によってしか触れることのできない精神の深淵があるとすれば、それはどのようにして分かち合うことができるのか。救いは、芸術にあるのか。(中略)芸術の圏内でいくら「芸術は可能か?」を問いかけたところで、それは問いとして脆弱であり、予定調和的な議論に終始するほかない。むしろその問いじだいが通用しない芸術の圏外で、芸術の可能性を問わなければ本末転倒ではないのか。岐阜アンデパンダンが重要なのは「芸術は可能か?」という問いを古橋より前に提起したからではない。むしろその簡潔明瞭な問いを、どこで、誰に向けて発するのか、その点を確認しないかぎり、問いが虚しく空転してしまいかねないことを明らかにしたからである。
美術手帖 2010.06 p,109〜111

 
そもそも「芸術は可能か?」という問いに誰が答えを求めてるだろうか
多くのアーティスト(この場合は「自分にとって芸術は可能か?」に直接結び付く人か…)はこの問いに答えを求めていない気がする
個人的には、可能だと信じたい、のか不可能だから抗いたい、のかを問われている気がする
どっちでもいいんだけど、制作においてこの問いを無視するな、という警告のようにも感じる
行為によって問いを投げ掛けた先に誰がいるのか、は重要だと思うから
どこで可能か? は重要だろう
 
責任をもって自分の言葉で(せめて自己の圏外へ)問うこと、直面したものから逃げないためにこの問いは必要だ
 
愛を救えるのが、芸術か?
救いのない愛に芸術は可能か?
が、S/N?
 
「愛は世界を救う」
「芸術は愛を救う」?
これは今の自分には別問題だな…
 
救いのない芸術ってあるかな…
 
救いのない芸術があるとすれば、何が可能だろう…
 
わからない
直面してないけど、救いのない芸術があるとしたら
それ以上に悲しいことはないかもしれない