後付けと裏付け

何でも作れる、何でも描ける、っていう白紙の状態は
一見、自由でいてとても不自由 に感じたりする
 
「もの」も「関係」も溢れる程満ち足りてる現代で
「ほしいもの」が明確にある人は少ない
それは恵まれている証拠なのかもしれないけど
それが大人から与えられた、自分で勝ち取ったものじゃないからこそ
虚構に感じたり、認めたくなかったりして
それらの中にある穴、のような、それが「欠如」だとしてもそこに埋もれているはずの自分を知りたくなる
 
きっとどこかにいるはずの自分を、欲しがる欲望 が生のエネルギーなんだろうけど
生きてるうちは、自分という存在の根拠を得ることはできない
っていうのは最近なんとなく分かってきた
 
思考は権利上、自由だけど
事実としてはとても不自由だ
それは言葉だったり、イメージだったり、そういうものが邪魔をして
意味を強制してくるから…
日々生きていく中で、確実に不自由になっていく実感がある
 
目に見えるイメージや言葉は、リアルの代理物で
あらゆる表現行為はリアルを追求しているのだと思う
多くの人が使っている意味での「リアル」=「現実」ではなく、現実(日常生活)よりもリアリティ/現実らしさをもつものが
ラカンのいう「現実界」にあって、…ってことでいいのかな
だからセカイ系だって美術だって、
現実(日常生活)よりもリアルなのは当たり前なんだ
 
うちの作品は、「何かについて」ばかりだった様な気がする
少しずつ、その「何か」そのものに近付いてるような気はするんだけど…
 
うーん、結局、どうしようか?
とにかく、できるだけ自由になるために、いらないものは捨てましょう。

生き延びるためのラカン (木星叢書)

生き延びるためのラカン (木星叢書)