補完

空気人形観てからずっと「生命は」が離れなくて
帰宅中ふと思った
今 電車の中で席に座っている
ここに私はいて、駅に止まるごとに静かに人が席に着く、
それが乗り換えでしかなくても、
私の欠落したスペースに一人が一人分のスペースで座っている
今、この時私たちは補い合っているのかも知れない
なぜか、席が全て埋まっている状態を完璧で完結されたものだと思い込むけど
人が座れる様に作られたこの空間で
誰かがその席を埋め、誰かがまた立ち上がって席を空け、
そうやってこの空間を人が出入りしてる
欠落した所にまた別の誰かが座って
もしかしたらずっと埋まることのない席もあるかも知れない
そうやって一つの空間でも補完は行われていて
それは不変ではなく、永遠でもなく、
私も自分の乗り換える駅で降りるときが来て、
別の電車でもまた同じ様に補完は行われていて、
その時私は目の前や隣に座る人に補われ、同時に補っている
ただそこに居合わせた、名前も知らない人が
私の欠落を、その席に座ることで、埋めている
このゆるやかな構成もひとつの真実で
私は初めて空間を愛しいと思った
この車両を動かす別の存在に対してさえも!
 
あらかじめ用意されている欠落、その空席のおかげで新しい風が吹くのか
その車両に乗る目的も人それぞれで、席が全部埋まって立つ人もいる
孤独を、満員の時に感じることが多いのは、
あの過剰さからかな?
丁度いい感じに余裕があってみんな座ってる方が安心するし心地好い、そんな感じ
あぁ、ゆるやかだ
空気人形行ったタイミング、神がかってたかも
 
喋り過ぎた
言葉にする前に作品化したいものが別にあるから喋れるのかも
制作してる人が詩的になるのはよくないと思う 今日このごろです