夢の終わり

この、私の目の前にある世界が、夢じゃないって
誰が言い切れるんだろう
大切な人も、大切な時間も
夢が終わるなら
これが夢だとしたら
今までの大切なものたちは全部嘘なのか?

目をつむっても、私はここにいるのに
耳を塞いでも、どうしたって私はここにいるのに

今が数十年前に誰もが願った「平和」なら
平和なんて、夢だ
まるで夢の中だ
生きるってなんて不自由なんだ

残酷で非道な現実からの逃避先が夢ならば、
夢からの逃避先は現実なのかな?
それとも、夢を覆うメタ夢かな?
今を生きる人の願いが「夢の終わり」なら、
それは目を覚ますことに繋がるだろうか
まるで夢のような平和からの逃避
生きながら夢を見ている
この閉塞感を打破する為には
夢から解放される為には
もう戻れないなら
死しかないのに

きっと沢山の人が夢から逃れたい/逃れたくない
この矛盾を抱えてる
生き延びるためには理想は必要だと思う
どんな小さなものであってもそれがないと生きられない

生きることが痛いと感じるのはなんでだろう?
曖昧さについて考える
揺らぐ世界を誰もが実感している
ぬるくて、柔らかくて、匂いのない、気持ちいいのか悪いのかよく分からない感触
そんな曖昧さの中で痛いと感じる原因は何だろう
痛いと感じたいのか?
痛くないから実感がない
だから腕を切るみたいにして生きているんだろうか
リスカをして死にたい訳じゃない、
生きている実感が欲しくて手首を切る
それは死につながる行為なのに、目的は実感を伴って「生きる」ことだ
これは現代そのものかもしれない
でもその時代も終わった感がある

もっと社会的な言い方をするなら、
個人の尊重によって自分がいないくなる感じ?
運動会でみんな並んでゴールする感じ?
みんな一位
数字を持ち出せば簡単かも知れない
どんな人格も、みんな1 みんな同じ数字
勿論人格に順位をつけるのは正しいとも間違ってるとも思わない
でも必要なことだと思う
自分のことを、自分で全て分かるなんてことはできない
それはよく知ってる
だから少しでも分かるための情報として数字だって有効に活用する必要があるのに
こんなに沢山の人間がこの地球で生活してて、
みんな同じ、一人はみんな、みんなは一人、みたいなこと大々的に言っちゃったら
もう自分なんて探さないよな
「そうか、私はどこにでもいて、どこにもいない」ってなるわ

そこに、「私はどこにでもいて、どこにもいないが、確かにここにいる」ってなると
また違ってくるはずなのに
自分を探すチャンスさえ与えられなかった世代が今の10代かもしれない?
今の20代は空白の世代なんて呼ばれちゃってるみたいだけど
自分のことそんな風に言われると悲しくなっちゃうわ

話がそれた

夢の蔓延するこの時代が向かっている方向はどこだっていう話
果たして現実(でもそれもよくは分からない)なのか、夢のもっと奥深くなのか、夢の中でも「夢落ち」したいのか?
どれも同じ所なのかも知れない
結局は、夢の終わり を目指してる
社会は知らないけど、現代美術(特にコンセプチュアルなもの)ではそうなんじゃないかと思う

まるで「戦時中の誰かが見てる夢」のような(=「平和」)現代で
生かされている私
さてどうしたものか
考えてるけど、見つからない

夢の住人が、夢から覚めたがっている
それで世界が終わってしまっても構わない
この不自由から逃れられるのなら

でも、私の求める自由な生なんて今までこの世界に存在したんだろうか
生きているということがそもそも不自由なのに、
生きたまま自由になるなんて、この夢の世界でも不可能なことができるのか?

不毛だ!
でも、この夢の先にこの自由があるような気がしてくるのも真実

現実ってどこにあるんだろう?
目まぐるしく働いて、結婚して、子供産んで、老衰で死んで、
そうやって生きる為の場所が現実なら
この夢から覚めたくもなくなる
現実に抵抗することで現実に生きることを実感できるなら
それが一番まともかもしれない。
結局は自分しだい、と言い切れる自分はまだまだ甘い若造なんだろうな
自分次第でどうにもならないから誰かの夢だって風に仕立て上げたりするんだもんな

だらだら書いたけど、
たぶんもうすぐ夢の終わりがくるんだ
もうすぐ夢が終わる
その準備は整ってる
根拠はないけど、そんな気がする
ずっとこのまま、宇宙みたいに夢が膨張し続けることはない気がする
そう信じたいのかも知れない