未来で待ってる

なんで私が宇野さんのいうところの「ゼロ年代」だとか「セカイ系」にここまで執着するのかっていったら
それはやっぱり、私自身が、「小さな物語」との距離のとり方だったり態度だったりっていうのにずっと、戸惑っているからなんだ
今日は「時をかける少女」を観た。一番最近の、劇場版アニメの。
あれがセカイ系だとか、何かの象徴だとか、そんなことはどうでもいいんだ。
ただ私は、物語が終わって(物理的に作品として幕を閉じたということ)それでもあのセカイに囚われたままで、抜け出せずにいる。
よくあることで、現実と、物語との境界が曖昧になる。夢が気持ちよすぎて現実が赦せなくなる。
自分がどこにいるのかよく分からなくなって、身体ごと作品に浸ってしまって、戻ってこれなくなる。つまり夢を見ているまま目が覚めてしまって
とても悲しく、なる。
それがまたしんどい。
最近の物語は意味がありすぎて、現実よりも現実味があって、そっちに、身を任せたくなってしまう。
だから私は決断に頼るしかなくなったんだ。
自分を「価値の宙吊りに耐えられない弱い人間」だと認めざるを得ない。
物語と現実の折り合いをつけるために、私にはセカイ系に関する「言葉」が必要だと思った。
自分も物語を扱うものとして自覚が必要だと思った。だからひたすら考えた。
四季の台詞が響く。
「最初から、そうだった。
 生まれたときから、そうだった。
 ずっと、それをお願いしていたのだ。
 神様に…。」
願わずにはいられない。神なんて、無根拠な存在に ずっとお願いしている。
 
でもだからってさ、無意味な物語なんてあり得ないのにね
それに抵抗しようとする作品 多いなって感じる
そういう抵抗は好意に値するけど、やっぱり、私は意味がほしい できるだけ沢山の意味が欲しい。
そういうことだ。人間ていう忘れることのできる生き物が、忘れたくないと思うこととか、忘れられないこととか、願いとか、そこにだけ自分が存在することができるんだから
それを諦めろって、言われるのは 悲しすぎる
 
こういうとき、想うよ
時をかける少女 [ 仲里依紗 ] 四季 冬 Black Winter (講談社文庫) [ 森 博嗣 ]