九五年思想

4章まで読んで。
 
1、「日常の外部として存在する「死」は、結局のところ商品のようなものでしかない。(中略)薬物も死(のイメージの消費)も、日常をやり過ごすための安全な擬似超越性=商品でしかない。」
2、「セカイ系とは、社会が物語を備給しない世界において、母性的承認に埋没することで自らの選択すらも自覚せずに思考停止する、いわば極めて無自覚な決断主義の一種にすぎないのだ。」
3、「『脱正義論』における「撤退」は「〜しない」という態度への決断であり、それも暫定的な選択肢のひとつとして提案される。「トライ・アンド・エラーを繰り返しながら対象との距離を検討し続ける」という、あくまで対象へのコミットを断念しない態度のひとつとして「〜しない」というカード、「撤退」というコミットのカードを持つ事を小林よしのりは提案したのだ。そしてこの「誤ること(傷つくこと)を恐れず、他者にコミットする」という発想は1997年の『エヴァ劇場版』の着地した態度に近い。」
4、「決断主義はこの「軽くなった現実」の「軽さ」に人間は耐えられないという現実認知が生んだ「焦りの思想」でもある。だが、これを過去の思想で批判してもまったく批判力は発生しない。「決断主義」を克服し、このゼロ年代バトルロワイヤル状況に対して何らかの批判力をもつものがあるとすれば、それは90年代後半の思想が見失っていた残り半分の「むしろ重くなった現実」「リセットできない現実」を考えることでしかあり得ない。決断主義の克服に必要なのは、物語からの自由の模索ではない。物語から不自由な存在である私たちの現実を受け入れた上で、どう決断主義に抗っていくのか、という模索である。物語批判ではなく、逃れられない物語との付き合い方の検討こそが現代の課題なのだ。」

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1は岡崎京子鶴見済について語られている箇所からの引用。完全自殺マニュアルもリバーズエッジも知っているだけによく分かる。性愛や死…野島伸司の本、そういえば高校のときによく読んだ。こわーい
2は、一般的にセカイ系はこういう風に認知されているのだと思う。無自覚なひとたちのすきなものたち。
3はー、私の好きなセカイ系。っていうと語弊があるな。私の信じているセカイ系か。だから私はTV版エヴァのラストに批判的なんだ。傷ついて傷つけてもそれでも物語を諦めずに何度でも繰り返すっていう姿勢。それが私が劇場版を大好きな理由。それは勇気になる。自覚を促す。
宇野さんは、セカイ系を引きこもり/思考停止だけに位置づけているようなので、そこがうちのいうとこのセカイ系とややこしくなってしまうとこではありますが、
私は宇野さんの定義するところのセカイ系から、今の自分の定義する(エヴァ劇場版の着地点ともいえる)セカイ系になるまで思考を続けることができたので、それは、庵野さんやうちの日常を彩っている人たちのおかげなんですが、なんかその過程がね、あぁ私結構まともなんじゃんみたいな そういう確認作業になったなこの章は。
結局物語を諦められない、物語から自由になることはできない。そのうえであえて決断すること、そこには物語の存在がある。価値のための決断だ。物語=意味。
私が最近ベルリン・天使の詩を読んで「決断」に揺り動かされたのはここだろうな。結局振り子をコントロールするにはとりえず決断するしかない。
4は、それだ。物語との付き合い方。態度。今の私に迫られていることそのものだー。
「むしろ重くなった現実」「リセットできない現実」を考えることっていうのはヒントだな。
この本との出逢いはものすぅごくタイミングが良すぎる。っていうか、感謝感激です。ゼロ年代についての批評家って東浩紀大塚英志くらいだと思い込んでいた…っていうか堂々と対立してくれる人がいなかったから本当に有り難い。

最後に引用ー。
決断主義とは、ネオリベラリズムのことでもなければ、『DEATH NOTE』の夜神月的特殊能力を背景にした全能感のことでもない。「価値の宙吊りに耐えられない弱い人間(自身を含む)のために、無根拠を承知で中心的な価値を信じる態度」のことなのだから。」
 
ま結局、昨日書いた記事と似たようなことだ。
私の解釈も、なかなかなもんじゃないかな!?なんて言ってみたりしてみたり
この後の展開も楽しみ。
ゼロ年代の想像力