データベースからコミュニケーションへ

第2章を終えて。
 
「データベース消費モデルの浸透は、物語の力を弱めない。むしろ人々を、無数に乱立し、増大する「小さな物語」の海に投げ込み、その無根拠と有限性を引き受けた上で、自己責任で自分の物語を選択することを要求する。私たちが物語の真正さを考えることには意味がない。だが、物語への態度、付き合い方を考える必要性にはいまだかつてなく直面している。私たちは何らかの「小さな物語」に依存して生きていかなければならない。その小さな物語が単一なのか複数なのか、永遠のものとしてそこに依存するのか、その有限性を受け入れるのかーー物語への進入角度、距離の詰め方、つまり物語への態度こそが、私たちの課題なのだ。」
これは批評家の意見なわけ。それは忘れちゃいけない。
私は作品を創る人として考えてみたい。
美術に属する作品でも、物語に依存するものは多い。私もその内だと思っている。
私の作品が、ある人には優しくて、ある人には優しくないのがその証拠だろう。
私は私の無根拠で有限な「小さな物語」を美術に携わる根拠にして生きているのだと思う。
宇野さんのいう「小さな物語」たちへの態度というのは、そういう閉じた物語(セカイ)を抱いている人たちと、また別の「小さな物語」との距離や関係だろう。
「物語の真正さを考えることには意味が無い」というのは大いに同感する。その物語の何が正しくて何が間違っているかなんて無意味だ。そういうレベルの話じゃない。
だから美術で作品をつくる上で、その「小さな物語」を扱うときに作り手に必要なものは、自覚だと思う。作家が喋らされる理由はここにあるんじゃないか。
ていうかそうなると他人の評価ってなんなんだ。え?あーよく分からんな
あーそうか、そこで目的がくるのか。自覚があれば次に何をするのかが分かるから、例えば私なら、サヴァイヴとは違う、セカイ系から派生しているはずのものを見いだしたいから(とりあえず)、それを探す手段としての美術だったり言葉だったり自身の感性だったり…?
セカイ系は大好きだけど、それに拘りたくはない。だから、この本はすごく有り難い。私からしたらセカイ系の定義が極端に感じるけど、世間での定義ってきっとそんな感じなんだろうなって思います。
私は、セカイの向こう側にいってみたいんですよ、壊したり奪ったり開き直ったりするんじゃなくて、物語を抱えたまま飛んでみたいんですね。だって夢は見たい。夢が見れるのはきっと現実があるからだし…人は眠るし、起きるし
そういえば夜神月って寝てるイメージないな!笑  正義(若しくは神)は夢を見ない?笑
シンジはベッドでぼーっとしてたりするしなーひとりのときは夢見心地だよなー
そもそも人の生に根拠なんてあるのかなぁ
根拠のある物語なんて、なんか脅迫的で息苦しいや
 
ていうか、また考え過ぎとか言われるのかな!
自分でも昔は考え過ぎだからちょっと思考やめようとか思ったりしたけど、最近ぜんぜん思わなんだ。考えないより考えてるほうがいい。楽ではないけど楽しいし。
何よりそうしてないと不安なんだな。安心って厄介だ。
さー三章も読み進めます
ゼロ年代の想像力