作用反作用の果て?

あー、音楽も美術も思想も「空間」によって統括できた(自分の中で)
なるほど
プロセスがどうであれ、結局うちは空間をどうにかしたいのかもしれない
ベクトルの先は空間かも
絵を描くことで空間を切り取ったり、音を作ることで空間にコミットしたり、美術をやることで空間を表現したり、
あ そうか
うちが世界と呼ぶものを空間と呼び直せばいいんだ
そしたら流れる 行き止まらない
 
サブカルにおいてセカイでしかなかったもの(もう「セカイ系」が出た時点でみんな本質に気付いてるじゃないかっていう…ちゃんとゼロ年代を象徴してるサブカルはやっぱすごい)を
世界と呼び直して
まず置換して表現することが今の時代では(制作のうえで)一番有効だと感じたから
明るい絶望を作ったんだ
あーそうか
科学的に今はまだできないことも
美術ならできる
それは言葉の役割と美術を並べてみると分かりやすい
例えば生身で空を飛ぶとか
科学的に難しくても美術ならできる。
どういう定義や要素(その言葉が覆うそのものの本質)を持ってそれをそう呼ぶ(言葉にする)のか がわかれば
それを美術ならできる
もし、ひとつの例としてなぜ生身で空を飛びたいのかという理由が浮遊感を得たいからっていうことだけだとしたら
浮遊感を得られる作品に触れれば済んでしまうかもしれない。
要は何を以て「飛べた!」と言うか…。
 
そして自然について
前にも考えてたみたいに、やっぱり自然っていうのは人が勝手に解釈するから生まれるもので
人がいなかったらすごく、今以上に「当たり前」の存在なんだと思う
地震や嵐やなんかがそうだ 別に何も悪くなんかないよね
 
でももしかしたら、それは今、人がまだ地球に存在するから現れた現象だとも言えるかもしれない
今でも地球で人と自然が共存していて、「よい関係」を模索するからお互いに変化し、恐れながらもコミットする
それで現れたのが温暖化なら
次は人間が変化する番だから、模索するのか世界は
 
あ なるほどな
 
うん 今までのことを全部、何ひとつ捨てずに前に進めるのはこういう考えだけかもな 今のとこ
 
美術は「その何か」そのものであり、しかし何にも回収(束縛)されない
「その何か」を問う行為であるから
答えでも結果でもない なるほど
手段じゃなく行為か。なんか言葉にしたら当たり前なことみたいになっちゃったけど、この言葉までのプロセスはすごく大事だ
あー
制作しなきゃ
 
明るい絶望作る前、意思の火花作ったときに
意味の前にある行為っていうのが何となく分かって
それでできたのが明るい絶望で
直後はなかなか言葉が出なかったけど
今こうしてあの作品がきっかけで生まれた(途中段階としての)ひとつの回答が出たんだから
美術が問う行為である証明にもなった
ずっとうちは、どれだけ遠回りしてても世界/空間を問うてたのかもなぁ
 
すごいなぁ
ちゃんと四年間、わたし美術やってきたんだ 今になって気付けた 今だから気付けた
価値がある。 大学での全てに価値があったし、今卒業を迎えることもすごくタイミングばっちりな気がする。
この先は生活環境が変わるけど、この思考癖はやめらんないだろうし
それならやっぱり美術はやめられないだろうし
ほんとに変化を期待できる
世界/空間の次に私は何を問うんだろう
世界/空間を問うことで本質はどう変化し、私はそれをどう模索するんだろう
 
楽しいなぁ
死ななくてよかったなぁ
この先また死にたくなったらそれはこれを忘れてしまったときかなぁ
 
やっぱりビオラも大事だけどパソコンを先に買おう