潜水

つらつらと書いてみることにする
 
個人的に、どうして音楽で有効だった方法を美術に応用できないでいるのか考えてて
昨日のO先生の授業を参考にすると凄く分かり易くなることに気付く
音楽が美術と違うことは、センスがなくても練習すればある程度は上手くなれて評価されるし納得できる音が出せるということ
音にも他の知覚と同じく、多くの人に「共通感覚」があって、それが俗に言われる「気持ちいい」か「気持ち悪い」かの判断基準になってる
だからその共通感覚をどう扱うかという「手段」が練習によって見いだされていくことによって、同時に気持ちよい音を聞き分ける能力も身につけることができる
 
トロンボーンの時は、とにかく自分が好きだと思う音を色んなところで聞いて来て、その全ての音を自分で出す為にはどういう身体の使い方をすればいいのかっていう逆説が自分のやり方だった
うちのパーソナリティは、そこでどういう音を選んだかというところにある
そしてそこにあるアイデンティティを見いだせないままやめたから美術に応用できないのかな?
あ、そこは後でいいや
うちは六年間トロンボーン以外の楽器を舞台で使うことはなかったから、
まず前提として「トロンボーンで出せる音」っていう限界値が既にあった
それが「人が聞こえる音」っていう限界値だと六年間じゃとても足りなくなる
うちのキャパとcpuでは一生でも足りないくらい。
トロンボーンで出せる限界のいい音なら一生あればきっと足りる
だから演奏家はちゃんと生きてるときに評価もされて在る程度は売れて貧乏になることはない
 
じゃあそれが作曲家になったとき
これは美術家と似てる
人が聞く事ができるいい音を産み出す作業になるとパーソナリティだけでは足りないし、アイデンティティもオリジナリティも絶対必要になる
まず組み合わせパターンが増えることと、それを制御する能力が必要になること、それを支えるアイデンティティが崩壊しないこと、アルケであるオリジナリティを忘れないこと、
これを全部やる能力って身に付くようなものなのかな?
あー難しい
でも結局は範囲や幅が広くなっただけで、演奏家のやってる作業と大きな変わりはないようにも思う
そこでも勿論「記号」を使うことは有効だし、人の創作物である以上時代性は必ずついてくる
 
聞くことが見ることになったとき
この考え方だけじゃ気持ち悪いのは
たぶん自分の目を信じてないからだ
自分の耳は信じてるしそれなりの自信があるけど
目になると、自分に嘘をつかれてる気になったり、素直に信じれなくなる
これはきっと言葉のせいだ
見えるものを言葉に変換しすぎた
音って見えるものほど言葉にできない
「いいね」とか「好きだな」とか「気持ち悪い」とか
せいぜいそんな言葉しか使えないから嘘はつけない
でも見えるものになったとき
簡単に嘘をつけてしまう いやだなー自分
それは多分、扱ってる分野が現代美術だからっていうのも大きい
コンセプチュアルである為の言葉の必要性がうちに嘘をつかせる
 
そうか、まず見えるもので、素直に「いい」と思える形を思い出そう
気持ちじゃなくて
水たまりみたいに光や温度では乾かない、でも不変でも永遠でもない感覚のものをまた思い出そう
それには、見たくなくても見なきゃいけない形があるな
今の自分には必要だ
こうやって自分中心に考えるのもできるだけやめよう
 
ちょっと最近、眩しい人と関わりすぎたんだな
もっかい潜ろう
でもちゃんと光のあるとこに戻ってくる
もうずっと雨の降る夜には、居れないな