再帰的であること

「徹底してセカイ系的前提を受け入れたからこそ、生きるためには(たとえ無根拠でも)何かを選択し、決断し、その責任を負わされなければならないという想像力が台頭したのだ。
同じように、決断主義者たちの動員ゲーム=バトルロワイアルを終わらせるためには、いや、より徹底することで次のものへと変化させるのには、これを批判するのではなく受け入れることからはじめなければならない。
私たちは、多様すぎる選択肢の中(もちろん、これはあくまで単一化の進むアーキテクチャーの枠内での選択である)から無根拠を踏まえた上で選択し、決断し、他の誰かと傷つけあって生きていかなければならない。この身も蓋もない現実を徹底して前提化し、より自由に、そして優雅にバトルロワイアルを戦う方法を模索することで、決断主義を発展解消させてしまえばいいのだ。
ひとつの時代を乗り越えるために必要なのは、それに背を向けることではない。むしろ祝福し、めいっぱい楽しみながら克服することなのだ。
ゼロ年代という時代を代表する想像力は、決断主義的動員ゲーム=バトルロワイアルである。そしてこの時代の長所を生かし、短所を克服する方法を考えることで、私はこれを乗り越える想像力を模索してみたいと思う。」
 
六章の終わりから。
大人ってのはシリアスになりすぎるからね。楽しむっていうのは大切なことだと思う。
特にセカイ系にどっぷりハマってるような人は、どうしても「絶望ごっこ」が好きだしその「傷」がないと必要としてもらえないなんていう根拠のない思い込みみたいな願いみたいな祈りみたいなものが棲み付いているから難しいだろうな。
セカイ系を、「楽しみながら克服する」のは難しいかもしれないけど(もう終わったことだけど)、バトルロワイアルなら楽しみながら克服できる余地があるような気がする。そこには自分の影が色濃く落ちたりしないからかな?
何にせよ、コミットを避けるような結果にならないで良かったなって漠然と思った。
勿論それが正しいとか間違ってるとかっていう話ではないけど、結局人は確かな輪郭を以て誰かと溶け合うことはできないんだから…
サヴァイヴはそれを前提として克服しているし、セカイ系だって、エヴァ劇場版を以てそのことを自覚しているはずだ。
それでも捨てられない願いなら、どうにか生き延びて、実現させてやるくらいの意気込みがあればその決断でこのバトルロワイアルを生き抜いていける。そういうことだろう。
何を信じるかはあくまで自由だ。ただ思考停止しないことを肝に銘じとけばいい。
 
まったく生きにくい時代に生まれたもんだな。私は好きだけどね!
ゼロ年代の想像力