意思の火花

あの作品、うーんコンセプト 今更だけどちゃんとまとめておこう
まずセカイ系からどうしても離れられない理由はもう分かりきったことだけど、とても簡単にもう一度繰り返すならば、それは世界よりもセカイの方が面白いからであり、悲しいからであり、世界が、大嫌いだからだ。
でも私たちは世界と無関係でいることはできない。生きる事は、絶えず変化し矛盾すること、揺れる揺るぎないものこそ美しい。それに抵抗し、何度間違っていたって誰が不幸だと言ったって望むことを止めないヒトの願いの強さはとても強い。
願いは、意思であり意志でもある。それが、光って、散って、集まって、また散って、変化する、遠く、聞こえる喧噪と、やまない電話と、手は届かない距離。
見えるけどそこにはないもの 見えないからここに現れたもの
要は、限られたヒトに向けられた作品だ。私は今はもう、できるだけ多くのヒトに意図を正しく伝えたいとは思わない。思えない。
捨てられない願いや、諦められない思いをずっと抱いているヒトに伝えたいことがあるから、もうそれの自覚がない人や自分にはないと思い込んでいる人をどうこうする気はない。だから必死じゃなかったんだ今回は。
次回からどうしようかな。何か言葉には絶対にならないようなものを産む装置を作りたいな。
言葉にならないものなんて沢山あるのに、現実を生きていると忘れてしまう。なんでだろう 悲しい
言葉で思考しているわけじゃないもの、言葉の数よりずっと多いのに どうしても安心したいから、言葉にしてしまうのかしら
最近肉体労働が多くて思考が停止している
どうしようかな この内容ミクシーに上げるの明日にしようかな
とりあえず2月と3月は、就活がんばるぜー
幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))