夜に帰る

よく寝た
 
昨日は余計なことまで言ったかな
 
目に見えるものより目に見えないものがほしいのは
強欲かしら
でもそれが私の本質だから
否定はしたくないんだ
目に見えるものを欲しがって満たされるような
そんな誤魔化しは欲しくない
 
「違うんだ」って声がする
全然黙らないんだ
理屈なんてないんだ
「それは見せかけなんだ」って誰の台詞だっけ
 
夢を見てるのかな
 
幻でもなんでもいい
信じたいものを守らないと
私はいなくなる
 
不在はいやだ
 
「僕の振り回す手が
空に 届いて
あの星を盗み出せたら
何か変わるのか」
 

 
社会的立場として現代美術家になりたい人は
ある意味で美術を肯定せざるを得ないんだと思う
だから理屈をこねる
必然性や意義にこだわるのは
美術であるための言い訳にも聞こえる
 
生き方として美術をやりたい人は
美術的な 美術ぽさを否定せざるを得ない
象徴は
リアルそのものじゃない
 
勿論、理屈抜きで
リアルだと言い切れる作品はあるから
私はそれこそが現代美術だと思ってる
 
先生や大学の掲げる現代美術はとても不自由だと
昨日私は感じた
 
何も思い通りにはならない
矛盾は取り払われてしまう
 
矛盾は自由であることの証明にもなるのかも知れない
 
ありのままでいれないのは
とても不自由だ
 
 
今のミクストはとても不自由
現代美術であることの一番大事な要素が欠落してる
 
私はそれを追い求めて制作してる自信がある
 
だから分かるなんて言われたくない
彼らが分からないのが私には正しい
 
分からないものは新しい
分かるものは古い
 
いつでも分からない
 
生命も
死も
存在も
リアルも
海も
宇宙も
何もかも
いつでも分からなくて
いつもとてもゆるやかな構成で
世界を成立させてる
 
私は美術家と名乗る人たちに問いたい
あなたたちは分かるものだけをやって、分からないものは切り捨てているのか とか
目に見えるものだけが欲しいのか とか
 
基準を設けるなら
それはもう既に形を決めてしまうことで
失われる何かに気付いているのか とか
 
文句を言いたいのは大学に対してだから
美術を否定したい訳じゃないのに
大学のせいで美術を否定せざるを得なくなることに
無性に腹が立った
 
そもそも、わざわざ美術館に足を運ぶような人は俗にいう美術ぽさを求めて来ることが多いし、自分も展覧会に行くときはその要素を探してしまう
リアルより前に、美術ぽさありき、になってる時もあった
 
だからやっぱり美術の可能性を疑ってしまう
 
「それをするためには、信じてはいけないことがある」って確か立誠で見たんだな
 
私は美術をするために美術を疑う
私は生きるために生を疑う
それが自由だ
作品はまず自由じゃなきゃいけない
 
いつだって本当に「分かる」のは
終わりのときだけだ
 
未だに終わり続ける世界で生きる私たち現代人だけが分かる世界がある
 
それはとても緩やかで
揺れる、揺るぎないものなんだ
 
だいぶ偏った意見だろうけど
大人になることを受け入れながら
信じてはいけないものとか
信じたいものとか
こういう考え方だけは失いたくないな
変化は厭わないよ
寧ろ、変化を期待する
 
それにしても
大学ってほんと理不尽だなー
社会に虐げられてこその現代美術なんだろうけど
それが現代美術の全てではないし
こんな多様化した現代日本
反抗勢力なんてもうマイノリティでもなんでもない
 
だからマジョリティな現代美術が流行ってきてるのかな
 
って思いました。
 
さて今日は色々片付けなきゃ
ゆかとゆきちゃんに聞いてもらってちょっとだけすっきりしたありがとうございます。