構図についての私見レポート

絵画は動かない。そこが絵画のもつ魅力であり、特性でもあると思う。動かないもので、如何に鑑賞者の五感を刺激し、自分の作品の前で立ち止まらせることができるかというのはとても重要なことだ。
 私たち人間は、三次元の世界に生きている。だからこそ平面である二次元を操り干渉することができる。一見、二次元は狭く限られた世界のように感じられるが、三次元に存在する私たちだからこそ可能な表現が沢山ある。私たちは三次元に存在しながら、視覚は二次元だ。五感における視覚の役割はとても大きく、感覚の柱となる働きをしているが、それは人がそう自覚しているだけで、実際には聴覚や触覚、嗅覚だって視覚と同じほどに活躍しているはずである。絵画における、色や構図の重要性は、視覚以外にこそあるのではないかと私は考える。
 存在しているけど見えないもの、見えるけど本当は存在していないかも知れないもの、というのがこの世にはあると思う。日常生活でそれについて考えたり、感じたりすることは難しいかもしれないが、絵画に携わっていると、そういうものを実感することが多い。ないと思うものが本当にないのか 、あると思うものが本当にあるのか 、ちゃんと疑問をもって思考することが人間のもつ一番重要な行為 ではないかとすら思うようになった。それを、「絵画」という手段をもって表現するということは、とても意義のあることだと感じる。自分が全身で感じている”世界”というものを、「見る」ということに縛られている二次元で表現すること、それは人に何かを伝えるという行為のうえで必ず懸念しなければいけない、「全てが十分に伝わるということはない」ことと深く結びついているように思う。
 人が自分以外の人に何かを伝えるときには言葉や絵などの手段が必ず必要になる。手段を用いるとき、それは自分の内から出た時点でもう既に形を変えてしまっている。そしてそれが他人にたどり着く頃には、己から出たものとはかけ離れてしまっている場合も少なくはない。こういうことを考慮しながら、それでも伝えるということを諦めずに表現し続けるというのはとても疲れることだ。
 絵画において、色や構図を扱うことは、言葉を選ぶのともよく似ているだろう。自分の意図することや、感じた事実を如何に正確に伝えるかということが重用視されるとき、人は慎重に言葉を選ぶ。しかし絵画は、言葉よりも多くの可能性をもっている。より多くの人との認識の「共有」という点では言葉よりも劣ることもあるかも知れないが、言葉でしか表現できないことがある様に、絵画でしか表現できないこともあるだろう。
 色や構図の持つ重要性は、視覚以外にこそある。そう「見せる」ことが何故必要だったのか、そう「見える」ことが何故自分には気持ちよかったのか、ということを鑑賞者に訴えることができるのは色と、構図だけである。五感の中の視覚以外の機能をもっと敏感にすることができれば、私自身も、もっと面白い絵が描けるだろうし、その作品を通じて、鑑賞者の五感にも触れることができるだろう。人が視覚以外の感覚を自覚すれば、きっと色んなことが変わってくると私は信じている。