地球最後の日

赦しであること
 
現実、若しくは社会 は
抽象が許されない できるだけ明確に、的確に、具体化を求められる
でも社会もひとつの作品だとしたら
それはもう壮大なプロジェクトだな
具体を追い求めた究極の作品なんじゃないか?
世界を言葉でどうにかしようとしてる感じ、に似てる
そもそも世界が抽象であることは周知の事実で
それをどうにか分かろうとするから具体的にしたがる?
社会の人間のほとんどが「知りたがり」の「終わらせたがり」だとしたら
なんだか納得がいってしまう
理由はそれぞれ口にするだろうけど
どれも言い訳だ 世界の抽象性に耐えられない言い訳
「どうして許せないの?」って言ってしまうのは違うんだけど
言いたくなるな
許せばいいのに でもそれは、愛じゃない ってことにしとく今は
世界を許す手段は愛じゃない
世界を赦せるのは表現だけだ 
赦す、というより 表現で世界を受け流す 風や水みたいに通り抜けてく感覚
ただ受けるだけでも、流すだけでもなく
受け流す 表現は世界を循環させることができる
芸術でも美術でもない、手段はなんでもいい
行為としての制作=表現 でもいい
作品は世界の一部であり、世界そのものだ